普段はなにをやっている方なのかー仕事観
「普段はなにをやられてる方ですか。」と肩書きを尋ねられ、ただただ困る。
普段の僕は、なにをやられている方なのでしょうか?
あなたは何をやられている方ですか?
普段の生活の中でたくさんあるうちの、
その中でもお金に繋がるところを答えれば良いのでしょうか。
大した事をいうつもりはないですが、それならば幾つかある。
ただ、幾つかあると困るのです。ああ、私はどれなのかと。
どれでもあるということで、納得してくれる相手ではないのです。
仕事というものを言葉で捉えようとした時に、私たちが無視してしまいがちなのは、その仕事をするようになるまでの経緯です。過去に敬意を払うことは大切です。そして、その過去の前提となっていますのは、疑いもなく私が今生きているということです。
普段の私たちの、何気なくの所作としての生命的行為が、なにより深くに根付く土台であり、そこには無意識に隅々まで張り巡らされた根毛があるのです。そんなことを考え始めても、何気ない最初の質問には、答えうることは出来ません。だからと言って、その問いは、私は私に対して私が何をしているのかを探るようにし向けます。
・・・こうやって、銀座線の端から端に渡るまでの時間を使っているうちに、緊張の糸が切れました。
私は、「あなたは何をしているの。」という質問に応えることはやめたいのかもしれません。それは、私の健康を考えてのことでありまして、生活への詮索を拒否することではありません。「何かをする」という行為よりも、私は、私がいまここに私としてあることに気づいて欲しいのだと思います。
することの主体から、あることへの主体としての認識の拡大が起こる事を願うのです。このことは仏陀がずっと言い続けてきたことらしいです。あなたの本質も私の本質は、することではなく、ただあることだと。
つまりはです。きっとおそらくこうなのです。私が他者から送られたいものは、「あなたはなにをする人ですか。」という問いではないのです。
「嗚呼、あなたが生きていてくれてヨカッタ。」という、私からの返答を要求しない、言葉が産まれたその瞬間に完結してしまう感嘆表現なのでしょう。
2015.01.13